昭和49年11月01日 朝の御理解



 御神訓 一、「神は声もなし形も見えず、疑わば限りなし。恐るべし疑いを去れよ。」
 神様を信じて疑わないと言う事は、神様の実在を信ずると言う事ではなくて、神様の働きそのものを信ずると言う事です。神様の働きその神様の働きを、どう信ずるかというと神様の働き、いわゆる全神全霊全神というのは神です。全神普通全身全霊というのは、全ての身と、身体と心という意味を全身全霊と申します。今日私は全身全霊と言うのは、全ての神。神様のその全神全霊がです。氏子可愛いという一念と言う事です。
 いうならば地球上に住む、ありとあらゆる動物がおります中にもです。取り分け人間を神の子氏子として教えておられます。その人間の真の幸せ幸福。願われるそういう幸福を願われるための働きであります。私は神様を信じておる信じてない。神様は無いいいやある、と言う事を信じておるというだけそんな事ではない。神様を疑わないと言う事は。神様の働きそのものを信ずると言う事である。それが神様の全神全霊である。
 そこで私共がその神様の働きを、先日からも申しておりますように、神様の働きの一分一厘間違いのない働きというもの。それは良い事悪い事に同じ事が言えるのです。素晴らしいおかげのタイミング。そういう時にも一分一厘間違いのない神様の働きを見せて下さる。それとは反対にタイミングが崩れてくる。いうならば痛い思いをしたり、情けない思いをしなければ成らない様な事でも、矢張り一分一厘間違いのない神様の働きだと信ずる。それを全てを神愛。だから是は親の心を思うたら分かります。子供をただ甘やかし放題に甘やかす事だけが親ではありません。
 例えば母性愛的な、愛を持ってするとただ可愛い可愛い、いうなら目の中に入れても痛くないというほどの可愛い。これを父性愛の面から見ると、言う事を聞かぬ時には怒りもする、叩きもする鍛えもする。どちらにしても親の愛です。天地の親神様の全ての働きの中に、私共人間氏子の上にそれを感じられます。ですから天変地変と言った様な事も親愛の現れです。親の愛の現われです。またあのご恩恵と、もう恵まれに恵まれる働きも、やはり、天地の親神様の愛の表現です。
 そこで私共がね、それを本当に実感として、神様の御働きとして、それが感じれれる時に、疑いは無くなってくるわけです。そう言う事になりましょう。そこで例えばここで、あの成り行きを尊ぶと言う事。成り行きを大事にしなければいけないと言う事。全ての事に、御の字をつけて、御事柄として頂くと言う事。そういう生き方を身につけるという事は愈々神様の働きを生かす事になる。自然に溶け込むと言う事は、自然を生かす事だ。自然を生かすという、そこん所にです。神様のおかげを感ずる。
 本当に信心も出来んのに勿体ないおかげを頂いてと。もう神様を疑おうにも疑いようがない。ただお願いをして奇跡的なおかげを頂いた。本当に新たかな神様じゃある。有難い、有難いと言いよるけれども、そういう奇跡的なおかげがいつも現れるはずは無い。そして、自分の願うた事が反対の事にでもなってくると、神様もいい加減なもんじゃとか、この前んとはあら腑が良かったっじゃろとかと言う事になってくる。
 ですからそういう例えばおかげを信ずると、おかげを頂いたから神様はござると分かるような分かり方では、本当の疑いは去る事は出来ません。先日から甘木の教会の記念祭が二十六、七でしたかね。私がお夢を頂いたのが二十六日か七日かでした。やっぱり丁度大祭の帰りに、家にお立ち寄り頂いただろうかと思うて、私は感動した事でしたけれども。あちらの先代のお夢を頂いた。まだ私のほうは椛目の時代の様子で、御結界がここにあって私が沢山の人をお取次ぎをしよる。
 それをここで見ておられるというか、待っておられるというか。私との話し合いをなさるために、それでひときりお取次ぎを終わって、椛目の楽室です。私の控えにも使っておりましたあちらで、先生と色々とお話を承らして貰い。また私の最近の信心を聞いてもらい。ほんとに色々お話の仕様もない程しの事で御座いましたが。こういう信心をしなければ、お徳は受けられんと。それも難しい事じゃない。いうならば本気でその気になりゃ、誰でも出来るような事なんだけれども。
 こういう信心をすれば、御徳が受けられると言う事を話して聞かせるけれども、そんなことは出来ませんと子供達が言うと言う様なお話でした。子供達といや先生の子供ちゃ沢山なことでしょうね。先生のご縁を頂いておる沢山の、信者と言うてもいいでしょう。なるほどおかげは頂くかも知れんけれども、お徳を頂くにはこういう信心しなければいけないよと言うても、先生そげな事は出来ませんとこう言う。ここでもよく皆さんそんな事を言いますよね。親先生の真似は出来ん。そう言うたらもうそれまでです。
 親先生たって人間だもん。それも別にほんなら火の中に立っとかんならんとか、水の中にちゃんと沈ずどらにゃんとか言った様な、難しい事じゃなかもん。あげんしちゃならんとかあれを食べちゃならんとか、飲んじゃならんと言う様なこっじゃなかもん。その気になりゃ、誰でも出来る事を、こうする事が徳を受ける事だと教えましても、子供達が、そういう事は出来ませんと言うというまぁ本当に、初代の安武先生としては、残念と言う様な思いを、私に打ち明けられたような感じでした。
 先日、甘木の親先生のことを書いた本を、少し読ませていただいておりましたら、甘木の信心は、こういう信心だと言う事を書いてあるのが、私はちょっと見当違いだなあというふうに感じました。これは本当に甘木にご縁のある先生方と、本当にご縁が出来たら、これは間接的にでも言うて差し上げなければいけないなと、私は思いましたというのは読んでみましょうか。こう言う事です。素晴らしい事なんですけれども、それが核心ではないと言う事です。
 「信心は過去の清算である。信心は自分を知る事である。生かされてある自分。神の氏子の自分。痛いと言う事が言える自分が有難い。生きているから痛いのが分かる。御礼の足らぬ、お詫びを申さなくてはならない。無条件の信心親孝行の信心。これが金光教の信心と喝破された。」というふうに書いてあるです。成程私もここではとにかく親孝行という事はね。私は肉親の親子より他にはないと思うです。道理をもって説くとです。天地の親神様の思いも、親の思いと同じだというふうに。
 子供を持って合点しよと言う様に仰りますからです。けども本当の親と言うのは、血の繋がりのいわば、肉親の親より以外にないです親子は。ですから親の事を切実に思うとか願うとか。愈々の時には例えどんなに親不孝しとっても、矢張り親の事を切実に思うものであるし、また親も子の事を勿論思います。ですから子供が親孝行をすると言う事は当たり前の事であって、それを信心させて頂く者は、親孝行がしようごつして堪らんごつなってくると言う事です、信心が段々分かってくると。
 だからここに例えば例が上げてあるのは、信心が分かってき、神様を疑う余地もないほどしに段々信心が分かってくる、おかげを頂いて。頂いてくるからです。例えば親は大切にしなければおられない事にる。今私が読み上げました事は、全部信心が分かってくれば、誰だってそうなれると言う事なんですここは。親のために無条件にもなれるし、親孝行の信心。金光教の信心はこれだと喝破されたと。間違いではない。けれども信心させて頂いておったら親不孝は出来んのです。
 ですからそれはね当然、ここん所は皆んなが信心が、段々分かってくれば、誰だって出来る事だと、私は思うです。例えば私と親教会の間だってそうです。私がおかげを頂いて、信心を分かってくればです。親先生はまた親教会は、大事にしなければおられなくなってくるです。だからその親を例えばです、今金光教で言うておる、親教会を親と思うたり、親先生を親と思うたりと言ったようなあり方をです。それを本当かと思うて、親教会に尽くす親を大事にする。
 それがまんざら嘘ではないけれどもです。これはね私はこう思うです。例えば甘木の安武先生が神様のご信用を厚く受けておられた。そこで信者は甘木の安武先生を、それこそ神様のように扱う。だから神様が喜びなさらんはずがないですよ。分かるでしょう。天地の親神様が、安武松太郎という人を、こよなく愛しておられた。こよなく信じておられた。その安武先生を、信者が子供が大切に取り扱うのですから、おかげを受けたんです。ところが、今度安武松太郎先生ではなくて。
 徳のないいうならば我情我欲の強い親先生であったり、親教会であったり致しましょうか。それを信者が大事にしたら、どう言う事になりますか。神様があげん奴はと思いござるとば大事にするなら、却って困った事になるような結果も事実あると言う事です。だから皆さんがです、私大坪総一郎が、天地の親神様からご信用を受けておられる人だと、皆さんが、もし信じられたらです。私本当に神様のように大事にすればするほど、おかげが受けられるでしょうね。
 けれども私が神様からで、信じられとらない。神様から睨まれとるいうならば。と言う様な大坪総一郎をもし大事にされたらです。大事にした人が私はおかげを頂く筈はないと思うです。だからここにです例えば親には無条件とか。勿論ここの親と言う事には親先生とか親教会とかの親が入ってるです、ここにはねそれが例えば、無条件に親孝行をして、神様が無条件におかげを下さるかと言うて、決してそうじゃないと言う事をです。だから安武松太郎という先生を信じ、安武松太郎先生を尊び大事にする。
 だから神様がおかげを下さったんですけれども。そうでない先生を尊んだり、崇め奉りよると崇め奉りよる者が、私はようおかげは頂かんごとなってくると言う事実をね。これは他の例から考えてそう思います。この辺の所をだから、安武松太郎先生の信心は、そういうもんじゃないと言う事。安武松太郎先生が身につけられた信心をです。身につけていったらです、親も大事にしなければおられない。例えば
 なさせて頂くその全ての事にです。真心を込めなければおられない、無条件での親孝行も出来る事は、その後に言わんでも出来てくる。けどもおかげを頂くために、親を大事にせにゃいかんとか、親教会には無条件でなからなければならないとかと言った様な、是は、私は間違いだと思うです。だから私は是は本当に安武松太郎先生の、本当なものはどこにあっただろうか。安武松太郎先生の信心は本当はどこだろうかと。と言う事をです何か分かっておる方があるかも知れませんけれども。
 分かって居られない様な気が致します。そして、枝葉の所だけをです。これは久留米の初代、石橋松次郎先生の場合でも同じです。あれだけの大徳を受けられた。だから本当に、石橋松次郎先生のような信心をすりゃ、あぁいうおかげも頂かれるはずです。所が石橋松次郎先生の信心の、枝葉の所だけをこう撫でたりさすったりしよるような感じですから。そのようなおかげが受けられない、そのような徳が受けられないでおると言う様な感じが致します。本当にお徳を受けられ。
 本当に沢山な人が助かり、ご自身も助かられて、神様を信じて疑わないご信心がです。後の世に、こうやって残っておりますから、そういう信心を、私共は頂きたいわけですけれども、肝心な所を頂いていないような気が致します。今朝から私はお夢を頂いた。もう、限りないおかげを頂いていくと言う事はね。限りないやはり信心修行が必要です。お徳を受ければ、限りなく受けられると言う事じゃありません。
 お徳を受けてもそのお徳を受けて、限りないお徳を頂いていこうとする精進がなからなければ、限りない事には繋がりません。もう雪の野原と言った様な所で一生懸命、相撲をとっておる様子でした。そすとまたその次には、少しジメジメしたような所の、いわば土地の上ですかね土俵じゃないです。やっぱり相撲を取ってるんです。取り組んでるんです。そして負けて転ばされた者も汚れるがこう取りよるうちに、どっちも汚れていくと言う所を頂きました。
 皆さんが矢張り神様と、いうならば四つに組んで相撲を取ると言う様な事は出来ませんけれども。神様の御働きと四つに組んでいくと言う事は、素晴らしい事です。いうならば神様の御働きそのものとです。例えば難儀な問題がそこに起きてくるならば、その難儀な問題と、本気で四つに取り組む訳です。掛け声はいいけども、負けたら泥だらけ。けども、雪の上であったら、それが汚れませんですね、負けても勝っても。
 そら様々な問題と取り組んで、いうなら問題のほうが勝つ場合もありゃ、またこちらが見事に問題を投げていく場合もありましょう。だから投げていけるばかりとは言えません。負ける事もあります。問題が問題である場合。けれども汚さんで済む汚れんで済む、私はおかげを頂きたい。いわば雪の上でなからなきゃならんと言う事です。雪の上でなら転んでも汚れないです。
 「疑えば限りなし、恐るべし」と言っておられます。だから信ずれば愈々限りないおかげが受けられるのです。信ずる働きがです愈々積まれてくるというかね。それを今日私は、神様の働きそのものを、信ずるとどう信ずるかというと、一切が神愛だと言う事。神様の御働きそのものがです。良い事悪い事全てが神様の氏子に幸せを、愈々もたらせて下さろうとする所の、働きであると信ずると言う事です。
 そこで例えば成り行きを大事にさせて貰う。全ての事柄に御の字をつけて、御神様の計らいとし御事柄として、それを頂く稽古をさせて頂く所からです。本当にそうだと言う事が分かる。なるほど神様の御働きであると言う事が信じれれる。そこから私は疑いは段々祓われてくる。いわゆる神様を信じて疑わないという心が生まれてくる。そこに限りないおかげの頂けれる元が出来てくる。それを愈々育てていくと言う所に今度は限りないおかげに続き、限りないおかげを頂き続けていく事が出来る。
 神様の働きそのものを信ずる。私は神様を信ずるとか、私は神様を信じないとかと言う事ではなくて、神様の働きを信ずる。ここの所が焦点になってまいります限りです。神様の働きが愈々信じられる。そのために例えば今合楽で言われておる、成り行きを大事にする、尊ぶと言う様な生き方を、愈々身に付けて行く所から、いうならば教祖様のお言葉を信ずる。教祖様のみ教えを信ずる。大坪総一郎が言うておる事を信ずる。そしてそれを行じていくと言う所からです。
 大坪総一郎も愈々信じれれる事になり。教祖金光大神のみ教えが、一分一厘嘘はないという事が分かってくるようになり。その向こうに神様の偉大な実証とでも申しましょうかを、証に立ててくださるおかげを頂いた時にです。いわゆる疑う余地のないほどしの信心が生まれてくる。そういう信心をです身に付けていったら、愈々真の人になって行くのですから、親は大事にするなと言われても、しなければおられない。親教会を粗末にせろと言われてもされない。
 いうならばどのような場合であっても、無条件の信心が出来てくるようになる。それを何か肝心要の所を外してただ無条件とか、親を大事にしなければならないと言った様な事では、本当の事では無いように思います。愈々信じて神様を疑わない信心を身につけていかなければならない。その稽古にです本気で私共が助からせてもらう。それには、神様が助けたい幸福にしたいという思いを、一人一人の上に下さるのですから。その御事柄を事柄として、受けていく修行を本気でさせて貰わなければいけない。
 そこに自分の助かりが出来た時に、初めて、合楽示現活動に参画するという、本当の意味においてのです。いうならば、参画させて下さいと言わんでも、しなければおられなくなってくると思うです。合楽示現活動と言う事を、例えば語弊があるように向き周ります、合楽というと合、合楽の事ばかり言うようにあるけれども。だからそれは、金光と言うても良い。金光示現活動に参画する。金光と言う事は、どう言う事かと言うと、金光様の教えを信じて助かった人と言う事になる。
 その助かった人でなからなければです。助かった自覚のある人でなからなければ、示現活動にはなって参りません。愈々そういう私共の助かりと同時に、示現活動に参画させて貰うて、愈々徳を受けて疑おうにも、疑う余地のないほどしの神様にしていかなければいけません。疑えば限りがないと教えられてありますが、信ずればまた限りないおかげに繋がっていけれるという、私はみ教えだと思うですね。
   どうぞ。